Profile

デラソル コバヤシの
「だいたいこんな感じで生きてきた」半生
もしくは3/4生

早稲田生まれ、早稲田育ち、勉強は「明日」から

東京は新宿区・早稲田の地で産声を上げる。幼稚園から中学校までをガチの新宿区立で過ごし、高校は当時の「学校群制度」という大人の事情に流されるまま21群の都立高校へ。
高校時代の記憶にあるのは、スポーツとバンド活動、そして文字通り謳歌し尽くした「青春」の二文字のみ。 勉学にいそしんだ記憶は綺麗さっぱり抜け落ちており、卒業式前日に担任から「お前、明日名前呼ばれない(=卒業できない)かもしれないぞ」と 真顔で宣告されるスリルを味わうも、そこは持ち前の悪運で無事に突破。

ボンダイビーチで聞いた山下達郎

高校卒業後、1浪の末に無理やり滑り込んだ、またしても新宿区の私立理系大学だったが、大学の色にどうにも心が躍らず人生の迷子に。 2年生修了時にはバイトで貯めたなけなしの1,000AU$を握りしめ気づけば単身オーストラリアへ渡っていた。

物価高のオーストラリア、当時のレートは1AU$=270円の時代。 勢いだけで来たものそれまでの人生で外国人と話した記憶も皆無。何とか外国人(笑)とコミュニケーションをとれるようにならねばと、とりあえず所持金の半分を使って1ヵ月間英会話学校に通う。
学費を払ってしまったら残りの手持ちは500AU$。これでは極貧生活を心がけても1ヵ月生きるのがやっと。 1ヶ月間の英会話学校終了後そこでできた友達のツテをたどって、失業率10%を超える中なんとかシドニーにある玩具の貿易会社に肉体労働の職を見つける。

貿易会社の倉庫で底抜けに明るい肉体労働オージー&優しくもお節介なパートおばちゃんオージーたちに囲まれ、オーストラリア訛りの発音を叩き込まれながら「happy-go-lucky」な毎日を過ごしつつも、腹の底では「さて、これからどうしたものか」と模索する日々を過ごす。

そんな生活を一年弱過ごしたある日の夕暮れ、ボンダイビーチの波を見ながらウォークマンから流れる山下達郎の『Big Wave』を聴いていた時、頭の中に突如として「広告とかなんか面白そうじゃん」というBig Waveが直撃。直撃のショックが冷めやらぬうちにさっさと帰国を決意する。

昼は狂気のプレスライダー、
夜は悩めるコピーライター

帰国後、心躍らなかった大学はさっさと辞め、まずは生活と広告業界への足がかりを得るため、オートバイ好きの趣味と実益を生かせる新聞社のプレスライダーに。都内の激しい渋滞の中を多い日は1日200km超、文字通り「気が狂ったようなスピード」ですり抜ける命がけの毎日がスタートする。

そんな狂気の生活を送りつつも当然広告業界への就職も諦めてはおらず、「今の自分にできそうなことで業界に潜り込めそうなことは文章を書くことくらいしかねーな」と超ポジティブに割り切り、消去法でコピーライターを目指そうと決意。
インターネットもない世の中でいろいろな人に聞いたり調べたりした結果、コピーライターになるなら当時(今も)コピーライターの登竜門と言われた『宣伝会議コピーライター養成講座』を出るのが一番だ!との結論に達し銀座の宣伝会議の門を叩いた。

そして「昼はオートバイで爆走、夜は机に向かってコピーを絞り出す」という、アドレナリン出っ放しの二重生活を1年間完走した。

バブル崩壊、そして「勢い」だけで始まった会社経営

無事に養成講座を修了し、大手スポーツメーカーをメインに扱うSP制作会社へ滑り込む。ここで日々コピーを書きつつも「キミはコピーを書くだけじゃもったいないな、外に出た方がいい」という社長の気まぐれな金言をいただき、コピーを書きつつ営業とデザイン・ディレクションのイロハをみっちり叩き込まれた。しかし、一人三役という慣れない激務と厳しい指導が祟り、自律神経が失調したりして心身はボロボロに。
そんなこんなで右往左往すること4年、設立間もないサイン・ディスプレイ制作会社に引っ張られ、今度は空間や立体造形という「3次元のクリエイティブ」を強制習得させられる。

そこで仕事をすること約5年、運命の1991年。
後から振り返れば「この時、既にバブル経済の崩壊は始まっていたのでした」と言われる時代の真っ只中、毎週月曜日の定例会議でそこの社長と意見が真っ向から衝突。 若気の至りの勢いそのままに「じゃあ辞めます!」と大見得を切って退職。退職の2週間後にはなんと自分の会社(有限会社ビュウ)を設立していた。
行動力が完全にバグってた。

Appleに貢いだ乗用車1台分、そして「3本の柱」へ

さて独立したものの当然仕事はほとんど無く、知り合いのツテと懇意にしていただいていたクライアントからのお仕事で何とか食いつなぐ日々が続きます。
がしかしなんと言うことでしょう、ちょうど世はデジタル黎明期。絵心がなくてもセンスとアプリ操作のスキルさえあればデザインができる(という噂の)Macintoshと出逢うことになります。
そんな話しを聞いたもんなら新しモノ好きのコバヤシの血が沸騰するのは必然。気づけば当時の乗用車1台分にも匹敵する「正真正銘の巨費」を投じてMacのシステム一式を導入。 「買ったからには骨までしゃぶり尽くして回収せねば!」と、今度は死にものぐるいでグラフィックデザインの荒野を開拓していくことになったのでした。

2年ほど自宅を事務所に仕事をこなして、拾える仕事は何でも拾っているうちにお陰様で仕事も徐々に増えていき、もう一人ではムリっ!と思っていたところへメインバンクの支店長から「一度ご挨拶に伺いたい」との打診が。何のご挨拶かと思ったら「そろそろご融資が必要かと思って」と。

まんまと借りさせられた数百万円で外に事務所を構え新スタッフも入れ、借金返済とスタッフの給料のために仕事をしてるような感覚にとらわれながらも続いてやってきたのはインターネット黎明期。もちろん新しモノ好きなコバヤシが黙っていられるわけがなく、解説本と格闘しながら自社Webサイトを独学で構築。当時は「自社サイトを持っている」というだけで「Webができる凄い会社」扱いされた古き良き時代、今となってはメインの業務とも言えるWebのお仕事がポチポチと舞い込み始めました。

こうして「グラフィック」「サイン」「Web」の三本柱が完成。お陰様で売上も順調に増え、最終的にスタッフも総勢8名にまで成長し、怒涛の10年を駆け抜けることができたのでした。

そしてミレニアムの熱気に世界中が浮かれていた2000年。ある縁から教育系コンサルティング会社の設立に加わって欲しいという声に誘われて新会社のクリエイティブ・ディレクターとして参画。
有限会社ビュウは人に任せ、立ち上げた教育コンサル会社で東京の私立中・高等学校を舞台に学校案内やWebサイト、当時はまだ他になかったWeb合格発表などの業務を通じて生徒募集に大いに貢献(できたと信じたい)。

撮影スタジオ居候を経て、「4本の柱」へ

同社在職中の2003年に現在の「有限会社デラソル」を設立。そして同社をリタイアした2005年、それまでに培った3本柱を軸に動いていたところ、今度はあるきっかけから超ベテランカメラマンに師事することに。 地下に大きな撮影スタジオを擁するその事務所に居候させてもらいながら、プロの商業写真撮影とライティングの技術を徹底的に叩き込まれたのでした。

——

思い返せば「叩き込まれてばかり」の我が人生だったが、気がつけば私の手元には「Web制作」「グラフィックデザイン」「ディスプレイデザイン」「商業写真撮影」という、他にはないな強力なマルチタスク可能の4本柱が揃っていたのでした。
そしてそれから20年近くが経過した現在、
性懲りもなく新しい事業を画策しているとかしないとか…。

コバヤシのミッションは、綺麗に整った制作物を作るだけの「単なる制作屋」ではありません。
お客様の懐に飛び込み、まだ本人すら気づいていない本質的な課題を発見し、培ってきた4本の武器を自在に組み合わせてソリューションを提供すること。

人生の酸いも甘いもすり抜けてきたパートナーとして、さて、次は何を解決しましょうか。

コバヤシの生息履歴